誰が殺したレイガン博士 (こんなに違うTVと劇場版1) 
主人公マリンとヒロイン(一応)アフロディアは互いに肉親の敵同士。
憎みあう2人がやがて惹かれあう愛憎劇がバルディオスのテーマの一つになっています。
が、しかし!
仇同士と言っても、TVと劇場版ではレイガン博士(マリン父)を殺害した犯人が別なんです。
TVはモブの無名兵士 劇場版はミラン(アフロディアの弟)が殺っちゃってます。 

TV版

画像引用Pioneer DVD
宇宙戦士バルディオス1話「孤独の追跡者」 
葦プロダクション 著作
ミランが放射能ろ過循環システムを破壊しようとするも
レイガン博士と職員が立ちふさがり死守。
レイガン博士を庇い
研究所所員がミランに撃たれ死亡。

次のシーンでマリンはとっさに金属片を投げつけ
ミランを殺してしまいます。








画像引用Pioneer DVD
宇宙戦士バルディオス1話「孤独の追跡者」 
葦プロダクション 著作
ミラン死亡後 研究所に入室したアフロディアは
死亡した職員の元に座り込んでいるレイガンではなく
その場に立ち尽くすマリンを見て
犯人はマリンと確信します。

アフロディアにミラン殺害を責められ銃を向けられても
マリンは反撃しようともせず棒立ち。
マリンの激しい動揺と後悔が伝わってきます。

この後 爆発が起こり研究所はシステムごと大破
レイガン博士は瓦礫の下敷きになり負傷。




画像引用Pioneer DVD
宇宙戦士バルディオス1話「孤独の追跡者」 
葦プロダクション 著作
大破した研究所で瓦礫の下からレイガンを助け出し
脱出のためパルサバーン(地下工場)に向かう2人。
レイガン博士は負傷するもまだ生きてます。














画像引用Pioneer DVD
宇宙戦士バルディオス1話「孤独の追跡者」 
葦プロダクション 著作
脱出途中 
無名の敵兵士に背後から撃たれ致命傷。
レイガンは2人での脱出を諦め
マリンだけ格納庫に向かわせ 直後に死亡。
この兵士が撃たなければ
理屈上 レイガンは死にません。










「互いに仇同士」の印象が強いのでミラン(又はアフロディア)が
レイガン博士(マリン父)を殺っちゃってると思いがちですが
TV版はわざわざ尺を割いて第三者を登場させているんです。

凶器の違い でも触れましたがTV版でミランにレイガン博士を撃たせなかったのは
マリンの殺意を認識させないため、がまず一つだと思います。
物語の展開上、マリンはミランを殺す必要があるのですが
お父さん目の前で殺されてやり返す だとミラン殺害に積極的な印象が残ります。
マリンからみたら過失致死で殺すつもりはなかった 不可抗力
を作り出す必要がありました。

二つ目にして最大の理由は憎しみの温度差を作るためだと思います。
ミラン殺害後 研究所に到着したアフロディアは「誰がやった!」と犯人を探します。
マリンが「僕でーす」という訳もないのですが
状況判断で直接手を下したのはマリンと確信し憎悪するのです。

アフロディアの憎悪対象はレイガン研究所やレイガン博士ではなく弟を殺したマリン個人です。
研究所襲撃にも感情はなく、邪魔だったから排除しただけ。
それなのに!!
S-1星人の未来をガットラ―に託し、自ら汚れ役を買ってでもミランの将来に繋げたかったのに
肝心のミランが殺されてしまったのです。
もう取り返しがつかない・・・

作戦は成功しました。
でもアフロディア個人としてはミランを失い敗北でしかないのです。
(ラスト前 ガットラ―に沈んだ顔で報告している姿からもわかります)

一方のマリン。
心血を注いだ研究をふいにされ 同僚や父親を殺された憎しみと怒りは誰に、どこに向かうのか。
アフロディアに対して「父の仇」のセリフこそ各話にあるものの
レイガン博士を殺したのはミランでもアフロディアでもなく一般兵士です。
(襲撃を計画したのはアフロディアですがマリンはそれを知りません。)

襲撃実行犯のミランはこの手で倒しました。
でも研究所は破壊され ミラン一人倒した所でどうする事もできません。
マリンの憎悪の対象は襲撃を実行し 再生可能なS-1星を捨て
何の関係もない自然が残る美しい星 地球を侵略する軍(アルデバロン)と言う組織全体
牽いてはそのトップに座るガットラ―でありアフロディア個人ではないのです。
その状態で過失とは言えこの手で人を殺めてしまった後悔と負い目が拭いきれないまま
対S-1星戦争の主戦力に組み込まれてしまいます。

アフロディアはSー1星人の生存をかけて職務として地球を侵略し
弟の仇であり裏切者のマリンを憎み攻撃します。
やがてマリンを憎む、その気持ちがアフロディアの生きる支えになっていくのです。

対してマリンは父と再生を望んでいた自然の残る地球を守りたいと言う願い 信念
自分の都合で他者の命を奪う行為を否定する意味でアルデバロンと戦いますが
アフロディア個人に対してはミランを殺し その悲しみを目の当たりにした負い目もあり
度々戦場で命を助けてしまうのです。

これがTV版における二人の愛憎劇の基本構造です。
憎むアフロディアに憎み切れずに助けるマリン。
物語が進むうちにやがてアフロディアはマリンを憎めなくなり 
尊敬していたガットラ―や戦いそのものに疑問を持ち
最後は自らの非を認め、マリンの腕の中で死ぬのです。

マリンの考えや行動は一貫しています。
殺人や戦争はいけないことで基本 やりたくない。負い目もある。
でも大切なものを守るためには戦うしかない。
TVのマリンはシリーズ通して悩み苦しみ続けますが基本姿勢は変わっていないのです。

TV、映画を通じてマリン役を演じた塩沢兼人さんはTVマリンに対して
秋田書店マイアニメ1981年9月号のインタビューで

「僕は、マリンとアフロディアの好意は同族意識的なものの発展したものだろうと思っています」

と発言されています。
二人の愛憎劇とはアフロディアの「憎」が動き揺らぐ事にあり
「愛」は男女間の愛よりも生き方、考え方が多くウエイトを占めるのです。

ただ肝心の35話36話(「アフロディアに花束を 前」「アフロディアに花束を 後」)
が打ち切りで未制作となってしまったので最後まで描き切らずに終わってしまいました。

DVDや配信で視聴可能な34話分
未制作の35,36話シナリオ、コンテ、豪華本等 残された資料を見る限り
広川和之さん(TV監督)と首藤剛志さん(TV脚本)は二人の関係をこのようにイメージしていたと思います。

次に映画を見てみましょう。
映画はキャッチコピーが 「スペース ラブ ロマン」
愛憎劇を男女間の愛と匂わせ愛と戦い 悲恋をテーマの一つにしています。
これは興行的にマスを掴むための戦略で
映画はこの中に二人の関係を当てはめる形で制作されたと思っています。

互いに仇同士の強調のため
ミランは直接レイガン博士に引き金をひき 致命傷を与えています。
大前提として尺の問題や二人の関係の単純化があると思います。

劇場版 


画像引用Pioneer DVD
劇場版「宇宙戦士バルディオス」
葦プロダクション 著作
現場の指揮実行はミランです。
襲撃シーンの新作カットはいのまたむつみさん作画で
ミランのイケメン度がチャージアップしています。

画面奥に放射能ろ過循環システム
(劇場版ではろ過装置)

最初にろ過装置を破壊
前方にいた職員は撃たれて死亡しています。
レイガン博士(左端)は直撃を逃れ
手傷を追いながらも
指揮官のミランの元に這っていきます。

今回見つけてしまったのですが ミスカットですね。
手前左端の軍人 立ち姿が女性だし
よく見ると髪が緑色。
拡大して確認したらやはりアフロディアでした。
まだアフロは到着していないし
ここはミランじゃないといけないのですがー

当時は映像のソフト化なんて想定外ですし
ロングショットなので気が付いていても
修正しなかったのかもー


画像引用Pioneer DVD
劇場版「宇宙戦士バルディオス」
葦プロダクション 著作

這ってきて体にすがり
止めてくれと懇願するレイガン博士の腹に
銃を押しつけそのまま撃つ。

いのまた作画でさわやかに登場したけど
やる事がえぐい。
これが致命傷で瀕死の重傷を負います。

レイガンが炎の中に(後ろに)倒れた後
入り口(画面左)からマリン登場
マリンはミランに銃口を向けられますが
鉄片をもぎ取り投げつけ ミラン即死。

鉄片シーンはTVからの流用です。

ミランがレイガンの腹を撃つシーン。
マリンは直後に入室してるので 状況判断で殺ったのはミランだと分かると思います。
でも発砲シーンは見ていない。
なのでTVからの流れ 
マリンの憎悪対象はミランやアフロディアではなくアルデバロン全体
はぶれてないと思います。

セリフもミラン死亡後に研究室に入室したアフロディアは
「私はお前を許さない」
と個人に
対するマリンは
「俺もお前たちを許すものか」
と集団に対してです。

TVのマリンはミラン殺害を責めるアフロディアに棒立ちだったのですが
映画は強気で受けて立っており、最初から対立構造を作っています。
「初めて人を殺して動揺するマリン」のカットも入らず
TVに比べて映画マリンの戦意は高いです。

TV、映画を通じてマリン役を演じた塩沢兼人さんは映画のマリンに対して
「徳間書店ロマンアルバムDELUXE47 宇宙戦士バルディオス」のインタビューで

「僕はマリンを弱い人間だと捕らえていたんです。
TVシリーズを通しても、かなりそんな部分を考えて演じていたんですが
今回の映画では少し男っぽく、成長したマリンの姿っていうのを演じています。」

と答えています。

これが塩沢さん独自の演技プランかは疑問です。
映画のマリンがアクションに寄ったTVに比べると好戦的なシーンが多いのと
「恋愛映画の男役」を強調させるため、演出の指示も入って
より強く男っぽく演じたのではないかと思っています。

映画における「憎」はTVよりも単純で分かりやすくなりましたが「愛」の部分
これがはっきり言って足りない。

マリンはアクションで男らしさを
アフロは冒頭の灯台シーンに見られるようにビジュアルで女性美を描き、性差を強調
後はセリフとイメージシーンで抽象的に描くのが精一杯。
説得力のあるエピソードが無いので気持ちがつかめない なぜ仇を好きになるのか分からない
が大方の感想だと思います。
(アフロに関しては力で従わされていたガットラ―への反動、と取れなくもないけどかなり強引)
仇同士の二人が惹かれあう その設定ありきで物語が勝手に進んでしまいます。

映画の新作部分のコンテを切ったのは全て総監督の鳥海永行さんです。
(映画のテロップに「コンテ」の記載が無いのですが
「映画自体、TVの再編集の要素が強いのでコンテのテロップを作らなかった」
と広川和之さんにお聞きしています。)

学習研究社アニメディア1981年11月号に2人の愛憎劇について
鳥海永行さん(映画 総監督)のインタビューが掲載されいているので一部、引用します。

「映画では、テレビシリーズの登場人物の性格が良くわからなかった部分があったので、
僕自身が解釈できる人物像にしてもらいました。

たとえばテレビですとアフロディアがどこでマリンにひかれているのが良くわからないと思いますし、
弟を殺されただけで2時間恨みを持っていくのは、出来ないと思う。

「嵐が丘」のヒースクリフみたいに、愛するがゆえに相手を憎み、傷つけるというような・・・。
アフロディアも愛するがゆえにマリンを憎むんだ、と考えると理解できるんですよね。
絵コンテを起こしていく過程で、自分で解釈したキャラクターに整理したつもりです。」

このインタビュー、鳥海さんの本意がどこにあるかは不明ですが、個人的には
TVシリーズを見てアフロがどこでマリンに惹かれるのか分からない鳥海さんが分からない
と思いました。

TV放映時や映画公開時は子供だったのでホントの所は掴み切れなかったのですが
30歳過ぎてDVDで見返して実感しました。
仕事も男関係も微妙になってる時期、しかも自分は脛に傷を持つ身
そこにマリンみたいな年下素直イケメンが現れたら
好きになる、気になって仕方ないって むしろ、あるあるじゃない?
実際、そんな話はよく聞くしフィクションでも珍しくない設定だと思います。
レディース寄りの少女マンガなんかだと王道パターンですね。
失った若さや実直さが眩しくて惹かれちゃう・・・みたいな。

まあここまで下世話にならなくてもアフロディアの「憎」が揺らいでいく過程は
首藤剛志さん脚本の一連のエピソード
20、21話「甦った悪魔 (前)(後)」
22話「特効メカ・ブロリラーの挑戦」
25話「ガットラ―暗殺計画」
でしっかり描かれているので見れば分かると思うんですよね。
(首藤さんご自身も「憎しみに凝り固まったアフロをマリンに向かせるためのエピソードが必要」
と提案して執筆された模様。 首藤剛志さんのコラム えーだば創作術にリンク
特に、21話「甦った悪魔 (後)」でマリンの生き方に共感する姿は「惹かれていく」
と捕らえて問題ないと思います。

もしかしてお時間なくてTVシリーズ全部は見返さなかった??とか失礼なことを思いついてしまい
広川和之さんにお聞きしたところ 「そこはちゃんと(全部)見てる」とお返事頂きました。

で、考えたのは鳥海さんもTVの2人の関係は分からないわけではないけど
プラトニック過ぎて2時間の枠で説明しにくい。
視聴者層やコピー(スペースラブロマン)を考えると恋愛色に落とし込む方が無難・・・
(忘れがちなのですが「劇場版宇宙戦士バルディオス」は同時上映が「Dr.スランプ アラレちゃん」なのです)
なので例えとして嵐が丘??
それか逆にホントにまったく分からないから、万人に通用する「恋愛」で絡めていこうと思った・・とか?
そもそも論として、ロミオとジュリエットのような悲恋、悲劇、泣き路線で・・・
的なオーダーだった可能性もありますしね。

近代映画社 ジ・アニメ臨時増刊号 宇宙戦士バルディオス特集号の
酒井あきよしさん(TV、映画 脚本)のインタビューには

「予定の2時間15分に収めるためにかなり整理して(シナリオ枚数を)250枚くらいにしたんです。
ところが映画の時間がそれから20分くらい短くなってしまったんです。」

とあります。
20分削られるのはどう考えても痛い・・・

同時上映のアラレちゃん
DVD予告上では「Dr.スランプアラレちゃん ハロー!不思議島の巻」とあり
1981年7月公開の「Dr.スランプアラレちゃん ハロー不思議島」のリバイバル上映?
だったのかもしれません。(見たはずですが内容を覚えていない)
これが25分(東映アニメーション 劇場版Dr.スランプ全作品
なのでこの影響もあったかもしれないです。

製作途中で当初、予定の無かったデビットを出すことになったので
その分、どこかしら削ったりもあったでしょうし
2人のエピソードに使える尺が当初より減ってしまったのではないですかね?
何にしても2人の関係 愛憎劇は見た人が納得できるように作れなかったと思います。

でも映画を見てるとマリンもアフロも自らの所属組織の中で浮いた存在である
とかなり強めに強調されてるんですね。
はぐれ者同志 でも「共にS1-星人」のアイディンティがあるが故に意識し惹かれてしまう
今回このコーナーのために映画を見返して初めてそう思いました。
これが映画における「愛」なのかもしれません。
塩沢さんの「同族意識」発言に通じるものもありますしね。

私は映画が今も昔も好きでなく、マジモンでどーでもいいのですが
諸事情ある中でそれでも精一杯のマリンとアフロディアを描いてくれたのかも・・・
なんて思えるようになりました。
だからと言ってやっぱり映画は苦手なのですが。


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(2021年11月)