35話「アフロディアに花束を」絵コンテ Aパート(後半)

場面が「ガットラーの室」に移り
対面時のガットラーとアフロが
視覚的に上下の関係におかれていてすごくイイ!
見上げた先から逆らえない対象が下りてくる。
一歩あとずさるアフロディアは
思わず・・と言う感じで体が先に反応したのでしょう。
軍人ではなく素のアフロディアになってしまってる。

ちなみにアフロディアのキャラデザインとして
・髪を下ろしている
・イヤリングをつけている
は女の記号
(そのデザインのアフロは女度が高い)
として描かれています。

35話は田中保さん作画監督で
バルディオス的に普通なんですが
シリーズ前半、海外(韓国)に作画を外注した
回は「これ誰ですか?」
状態なアフロディアがたびたび登場してたりします。

めがね(サングラス)をかけて髪をアップにした美人
ってフツーに考えても描きにくいですよね。
理由を広川さんにお聞きした事があるんですが
「サングラス外して髪を下ろすって芝居が出来るから
だよ」と。

秋田書店マイアニメ81年8月号の田中保さんのコメンにも
アフロディアのキャラクターデザインについて
「最初にエンディングの私服姿のデザインがあり、
それをみんなでアイディアを出しあって、
あの軍服姿を作ったのです」
とあります。

この場面のアフロがサングラスをかけてるのは
絵的にちょっと固い気もしますが
後で外す描写が出てくるので
その辺も注目です。
 
背景が?な気もしますが
構図と絵柄から見てここのC-102だと思います。

徳間書店アニメージュ81年4月号
徳間書店ロマンアルバムデラックス
宇宙戦士バルディオス

C-104ガットラーちょっと身を引く

ここのガットラーも素で驚いています。
まさかこんな反応が帰ってくるとは
夢にも思わなかった・・と言う所でしょうか。 

25話ラストではおとなしく抱かれていたアフロディアなのに
(抱き寄せられ髪を撫でられる)
ここに来て
「人形ではありません」ですからね。

ガットラー的には突然でしょうが
アフロディアの心理描写は丁寧だったので視聴者目線では納得です。
2人のセリフと芝居がホントに良い。
見たかったですよ・・・

C-112 
葦プロダクション宇宙戦士バルディオス
 
シナリオでは出元の解らない銃になっていましたが
アフロディアにアクションさせ
隠し持っていたナイフに変更。
またこのナイフもシナリオと違い
最初から自分に向けています。
 
C-117
徳間書店ロマンアルバムデラックス
宇宙戦士バルディオス
 
C-119
徳間書店ロマンアルバムデラックス
宇宙戦士バルディオス 
 
酒井さんの小説にもここのエピソードは収録されていて
抱き寄せられた時に
ガットラーの銃を抜き取り胸元に突きつける
とあります。
(そんで自分の体に銃を向ける事はしない)

活字ならともかく画面にすると体格差のある2人ですし
この上銃を抜き取られ向けられるって
ガットラーが余りにも哀れ。
って言うかそこまでする必要ある!?
でコンテの方が自然だと思います。

ナイフの方が殺傷能力としてワントーン落ちるし
絵にしたとき潔い印象が残るんじゃないですかね。
攻撃ではなく防御、拒むための武器
身を守る、のイメージ。

別に他に誰もいなくても嫌なら拒むのが女性。
でも男性は「(自分を拒むなんて)他に誰かいるのか」
の発想になってしまいがち。
C-122
「一度目を閉じてまた開く(これで間をとる)」
はこの男性心理をよく表してると思います。

一方のアフロディアは、ほぼ無意識に拒んだだけなのに問いかけられることでマリンを意識してしまう流れになっていると思います。
(異性としてではなく生き方としてなんですが)

拘束されてたのに
身体検査甘いなって突っ込みはあると思いますが
アフロディアは25話「ガットラー暗殺計画」でも
テロリストに拘束されてた時に
バックルと踵に仕込んでた銃で戦ってるので
TVシリーズ見てきた視聴者目線だとOKかな、と。

ちなみに25話では仕込んであった小型の銃を
その場で組み立てて戦っています。
ここで銃を組み立てるわけにはいかないし
隠し持てるほどの超・小型の銃では
絵にした時に華がない。
(つーか何持ってるか解らなくなる)
色んな理由でここは隠し持っていたナイフ
で正解だと思います。


ガットラーの背中の演技に
相対するアフロディアの正面からの構図。
良い、すごく良い。
ガットラーの悲しみが伝わってくる。

Cー124 間をとってからガットラーのセリフ
「もういい・・・アフロディア」
これがガットラーの精一杯だよね・・・

仕事として司令官は解任するけど
アフロディアの気持ちはちゃんと尊重してる。
(劇場版のガットラーなら問答無用で押し倒しそうだけど)
惚れた弱みでもう、そうするしかないのかな・・
従わないからと言って切って捨てるなんて出来ない。
脱走しなかったらそのまま自由にさせそう・・・

葦プロダクション発行「宇宙戦士バルディオス」
(通称 豪華本)
でガットラー役の青野武さんのコメントに
「アフロディアとのやりとりがガットラーの見せ場の一つ」
「人のいる前では忠実な部下でしかないが
二人っきりになると男が女に対する感情に切り替わってしまう」
とあります。

広川さんも2002年発売のDVD-BOX豪華解説で
アフロディア役の神保なおみさんについて
「キャラを把握するのが非常に難しかったにも関わらず、彼女の持つ揺らぎも含めて作り上げてくれて印象深かった」と発言されています。

また広川さんから神保さんについて個人的に伺った時に

「初めはお世辞にも達者な演技とは言えなかったけど
結果としてガットラーの傀儡に過ぎなかった
初期のアフロディアが人間性に目覚めていく過程が表現できた。
悩みながら演じていたようだが25話で何かを掴んだようだった」
ともお聞きしています。

このコンテも青野&神保で脳内変換して読んでいただきたい。


たびたび35話と25話「ガットラー暗殺計画」とを比べて語りましたがどちらも2人の関係を描いただけではなく
作画(作画監督 田中保さん)と
演出(石田昌平さん)が同じなんです。

25話はZ5の回(29話「地球氷河期作戦」)とか
のように特別に綺麗で特別に動いてるわけではない。
淡々と演出で見せていく所に魅力があり
もしも35話が完成してたら
きっと25話のようになっていたんじゃないかって
思っています。
(これは褒めているととって欲しいです)

ちなみに25話はこんな絵柄
(手持ち25話セルに飛びます。似てるでしょ)







ちなみに石田昌平さん
バルディオスでは25話の他30話「地球不毛の日」
の演出担当。
未制作分は35話「アフロディアに花束を(前)」の他
38話「雷太よ、明日を救え!!」の演出を担当されていらっしゃいました。

夭折された方で
バルディオスの他だと1982年の
「魔法のプリンセス ミンキーモモ」の演出が有名でしょうか。
首藤剛志さん、湯山邦彦さんらと親しかったそうで
1991年「魔法のプリンセスミンキーモモ 夢を抱きしめて」
(海モモ)
で石田さんの追悼エピソードのお話
(53話「走れ夢列車」)
が作られています。
(首藤剛志さん シナリオえーだば創作術に飛びます)


広川さんから石田さんのお話も伺ったことがあります。
(業界に入る前からの友人だったとお聞きしました)

何度言ってもしょうがないのでこれで最後にします。
本当に・・・色んな意味で35話見たかったです。


ここからシナリオと具体的に表現が変わります。
シナリオでは

インサートフラッシュ
絡み合う美しい男と女のシルエット
に始まり
アフロディアのモノローグ
「たった一度の契りだった・・・」
だった所です。

イメージシーンなので
どうとるか、は個々の裁量ですが
「ヌードです」の指示も入ってますからね・・・
私はアフロディアは身も心もガットラーの支配下にあった
と解釈しています。

(おそらく若い頃から継続的に)男女関係にあったが
恋愛的に別れた、切れたではなく
近々はお互い多忙で途切れたままだったのかな、と。
(35話アフロの「昔のことです」発言や
22話「特攻メカ ブロリラーの挑戦」の
ガットラーのセリフ
「お前とは久しぶりの食事だ」
に匂わせるものが)

22話「特攻メカ・ブロイラーの挑戦」
のリスル&ラトピ(恋人同士)のように
寸暇を惜しんで会うとか互いに求め合う間柄ではなさそうですしね。

アフロディア的に避けられないから受け入れた。
養育してくれた恩と尊敬
(引いては弟ミランの将来)に置き換えることでアイデンティティを保っていたのだろう
と私は思っています。
C-134
 近代映画社ジ・アニメ82年1月号 

劇場版でもアフロディアの見た夢?として
似たようなイメージシーンが入るのですが
これが又ちょっと・・・

TVコンテのC-135(ただしアフロディアは着衣)を流用しつつその後に
逃げようとしたアフロディアが押し倒され血が滴り落ちる
(&バラが散って蝶が舞っちゃうよー 
しかも絵が気持ち悪い←個人の感想です)

なんだろう・・・・
むか~しのエロビデオの襲われる女のテンプレ
床の間の椿が落ちる、みたいな?
「本意ではなかった」を言いたくてこの表現なんでしょうけど陵辱のイメージが強すぎてちょっと受け入れられない。

学習研究社アニメディア1981年11月号
劇場版監督の鳥海永行さんのコメントに
「TVシリーズ登場人物の性格がよくわからなかった部分があったので、僕自身が解釈できる人間像にしてもらいました」
「絵コンテを起こしていく過程で、自分で解釈したキャラクターに整理したつもり」
(劇場版の新作カットのコンテは鳥海さんが担当)
とあるので、鳥海さん的にはこうなのかな。

徳間書店アニメージュ81年12月号の鳥海さんコメントには
「(ガットラーとアフロディアの描写について)
あくまでもおとな向けの作品ですから、見た人にはハッキリわかるように描いています。
こまかい点は最終的なツメを行っている」
とあります。

力で従わされてた女が若い男(マリン)に走る。
解りやすいって言えばそうなんだけど・・・
映画だから表現が強くなるのはOKなんですけどね。
もしかして恋愛物はあまり得意ではなかった?とか?
絵があんなじゃなければ印象も変わるかも?
なんですが。

鳥海さんはTVシリーズの踏襲ではなく
全然違うご自分のバルディオスを作ろうとしていた
と伝え聞いことがあります。
クリエイターならそれは当然でしょう。

「打ち切りで描けなかったラストを映画で完結」
劇場版はそんな触れ込みでしたが
TVのバルディオスが描きたかった世界ではありません。
でも私が見たかったのはTVの続き
TVの世界観なので劇場版は受け入れられません。
小説もしかり。


話戻ってTV35話のこのシーン
シナリオからなぜコンテ表現に変わったか?
TV監督の広川和之さんにお聞きしたことがあります。

私はてっきり
シナリオだとあからさまなので
放送コードの関係で(一応子供番組だから)
より柔らかい表現にしたのだと思っていました。

けどそうではなくて作画ローテーションの都合
なんだそうです。

どういう事かと言うと
35話は田中保さんの作画監督回で絵柄は
今まで上げたとおりなんですが
Z5的ないわゆる流麗な絵ではないのは解りますよね。 

しかも私が上げた図版はメディアに掲載されていた物なので、より良い絵を選んで掲載されていたと考えて良いです。

先にあげた手書きのスタッフ表見ると
35話作画は「韓国」「金村雄二」とあります。
(近いところでは33話「破滅への序曲(後)」
がやはり韓国、金村雄二)

「絡み合う美しい男女のシルエット
はよっぽど作画が良くないと気持ち悪く感じてしまうので表現を変えた」
と伺いました。
(念のために言っておきますが田中さんの絵が綺麗じゃないって言ってるんじゃないですよ)
広川さんとお話してた時に
「もしミランが死なずに無事に成長
(って言うか独り立ち)
していたらアフロはどう生きたんだろうか」
って問いかけたことがあります。

(ミランが死ななかったらお話自体が成り立たないのは百も承知なのですが
昔入っていたバルディオスFCの会誌に
「両親が死ななかったらアフロディアはどうなっていたか」
の質問に対して広川さんが
「良家の子女、普通のお嬢さん」
と回答していたのを踏まえてでした)

少し考えられてから
「失踪しちゃうんじゃない」
「もうそこに居る必要はないよね」って。

それは私にはまったく無い発想だったのですが
そうかもしれないな、と思いました。
それでもミランを思って実際には失踪しない(出来ない)かもだけど気持ち的にはそうかもなって。

1話でミランが死んだ時にアフロディアの心も葬り去られてしまっていた、
でも現実には生きているから、よすがとして
「弟の仇」を唱えた。

戦場でマリンと相対するうちに
マリンの戦う理由を知り憎めなくなってしまった。
それでもS-1星人のために
と戦っていた司令官の地位も外され
ガットラーとも決別したらもう生き様が無いんじゃないですかね。

この後アフロディアは脱走しますが
「マリンを倒す、弟の仇」は言葉だけで
真意は死に場所を探しに
だと思います。
(でもネグロスに討ち取られるのは嫌だった)
もうババアなんで
自分に惚れてる男(ガットラー)くらい手玉に取れよ
アフロディア・・・
とか思っちゃいますが
それが出来ないって言うか
そんなこと思いもつかないのが
アフロディアのアフロディアたる所以ですよね。
「アフロディアに花束を」
良いタイトルですねえ、ホントに。

35話Aパートはここで終了です。
35話の見所は何といってもAパートの
ガットラーとアフロの応酬です。

続くBパートはストーリーを消化していく流れなので
Aパートのような盛り上がりには欠けるかな。
(でも面白いけど)

35話コンテBパート(前半)へ

35話コンテAパート(前半)へ  資料館トップ  メニュー


(2018年12月)