海に降る雪



一時間後、ハーマンは二人の部屋の前にいた。
「時間だ。」
だがすぐには扉を開けなかった。
この上二人に恥をかかせたくはなかった。
「開けるぞ。」
ちょうど三分経ったところでハーマンは中に入った。
そこにはただ呆然と立ちすくむアフロディアと泣きはらした顔のマリンがいた。
室内の空気は重く、息苦しい程濃密によどんでいた。
「行くぞ。」
これで良かったのだと思いたかった。

ハーマンが一歩踏み込んだのとマリンがかばうように割って入ったのは同じだった。
その顔は惨めにただれ赤く腫れ上がっていた。
ただ愛する者を守る、という頑なな意志だけが存在していた。
何者をもここを通させはしないのだろう。

すっと何かがマリンの後ろを通り過ぎようとしていた。
「お願いします。」
驚愕するマリンをよそにアフロディアはハーマンの前に進み出て両腕を差し出した。
ハーマンは無言で首を振ると背を向け共に歩き出した。
「アフロディア・・・」
つられるように外に出るとそこには銃を構えた複数の隊員がいた。
「アフロディア!」
追いすがるマリンは雷太と隊員によって羽交い締めにされた。
目の前でアフロディアは行こうとしていた。
「アフロディア!アフロディア!」
ゆっくりと振り返ったアフロディアの唇がかすかに動いた。
「ありがとう。」
そう言って笑った。

がむしゃらに抵抗するマリンは同じく必死の形相の雷太に押し戻され、室内にたたき込まれた。
「アフロディア、アフロディア、アフロディア!」
苦痛に体をかがめ、顔をゆがませながら、マリンはなおも扉を叩いていた。
その悲痛な叫び声を聞きながら雷太は二人の跡を追った。
誰でもない、俺が見届けてやらなければしょうがないじゃないか。
あるかどうかも解らない、いつ来るかもしれないその日のために雷太は走った。


ついさっき、ここで愛し合った。
マリンはぼんやりとベットに背をもたれたまま床に腰を下ろしていた。
今はもう確実に存在しないその人。
どこを捜そうとも、もういない。
時計は一時を指していた。

「もう時間がないから。」
そう言ってアフロディアはボタンを外した。
音を立てて上着は床に落ち、白いシャツの下には同じように白い素肌が見えた。
見慣れた軍服姿だった。
でも何かが違っていた。
アフロディアはひどく痩せてしまった。
肌は弱々しく衰え、青く血管が幾つも透けて見えた。

かつて、あの凍てつくようなベリシアの夜。治療の手が震えていたのは寒さのせいばかりではなかった。
あの時乳白色に輝いていた乳房も、もうそこにはなかった。
「今の私を見て。覚えていて。」
「忘れない、今の君を。」
身に焼き付けるようにその体を抱きしめた。
前よりいっそう細く頼りなかった。

行為の間中、彼女は泣いていた。
そんなに泣くならもうこんな事はしたくない・・・
何度そう思っただろう、それでもマリンは本能のままに動いた。
最後に望むのはこんな事なのか。
ただ苦しく辛かった。
どんなに抱こうとも数時間後には消えてしまう命だった。
涙も、汗も、吐息も何もかもむなしく消えてしまうのに。
それでも走らなければならないのか。
越えねばならない何かの為に、伝えねばならない何かの為に自分を殺し、ただ抱いた。

やがて疲れ切って動かないマリンの下でアフロディアは身をよじった。
つられて見あげた目の先にはもう二十分を残して指す時計があった。
「ばか野郎!」
アフロディアは悲鳴のように怒鳴りつけるマリンをただ無表情に見つめているだけだった。
長い髪がシーツに広がりまるで別の生き物のように豊かにたゆたっていた。

ゆっくり、覚悟を決めたマリンが首に手をかけ力を込めるとアフロディアは幸福そうに目を閉じた。
指が白い肌に食い込み始めると安らかだった顔は赤黒く鬱血し、苦痛にゆがんだ。
その顔にはじかれた様にマリンは手を離した。
「出来ない、俺には出来ない。」
アフロディアは体を丸め苦しそうにむせ、その後笑った。
それから二人で泣いた。


「終わったぞ。」
どれ程の時間が過ぎたのだろう。気がつくとハーマンが立っていた。
マリンはちらりと一別すると再び目を床に落とした。
彼を恨む気にはなれなかったが、今は何を言う気にもなれなかった。
「君の仕事は終わった。もう帰りなさい。」
穏やかに諭すような口調だった。
「会わせてくれないか。」
初めて気がついたようにマリンは言った。
一目会って別れを告げたかった。
「全身蜂の巣だ。見てもしょうがない。」
その言葉にマリンの体はかすかに震えた。
「立派な最後だった。誰にでも出来る事じゃない。」
ハーマンはそう言って何かをマリンの手に握らせた。
懐かしく冷たい感触は一掴みの髪だった。
静かにマリンの手の中でしなり揺れていた。
「さあ。」
促されてマリンは立ち上がった。
「後はお願いします。」
通路ではいたわるような面差しの月影とクインシュタインが立っていた。


マリンは翌一日だけ休養を取ると通常任務に戻った。
次々と、ただ与えられる職務を淡々とこなす日々が続いた。
彼が何を想い、何を考えているのかは誰も解らなかった。
ごく普通に起き、食事を取り、仕事をし、寝た。
何もかも、ただあるがままに流れていった。

雷太は連盟での残務整理を終え、マリンに遅れる事十日で通常任務に復帰した。
「ご苦労だったな。」
事のおおよそのを知っている月影はそう雷太をねぎらった。
「あいつ、どうですか。」
「うむ・・・」
そう言った先がどうにも続かなかった。

月影の目にはマリンはいつもと変わらなく映っていた。
きっちりとある一線で他者を拒み、いつもどこか影があった。
与えられた仕事は熱心にこなし、さほどのミスも無かった。
かといってその態度はどこか投げやりでもあった。
これは何も今に限った事ではなくマリンにはこれまでもそういうところがあった。
それでも一つだけ違うと感じたのはかつては確かにあった命のきらめきがない事だった。
無気力、そう言い切っていい程、騙し騙し生きているように思えてならなかった。
「そうですか。」
雷太も又大きくため息をついた。
「でもあいつなら大丈夫ですよ。きっとなんとかやっていきますよ。」
あんな生き方を見せられちゃあそれもしょうがないじゃないか。
だからこそマリンはいつか自分の足で立ってくれるだろう、雷太はそう信じていた。

「マリン!」
雷太は一人無人の格納庫にしゃがみ込んでいるマリンに声をかけた。
マリンは非番の時や手持ちぶたさになるとここに来る事が多かった。
そうでなければ海を見ているか自室にこもるかのどちらかだ。
マリンは額に汗を流しながらパルサバーンのギアあたりを熱心に磨いていた。
「顔が写りそうだな。」
雷太のおどけたしぐさにマリンは手を止め少し笑った。
「帰ってきたのか。」
「ああ、さっきな。」
そうか、とだけ言うとマリンは又熱心に磨き始めた。
雷太にとってもキャタレンジャーは愛機だが、マリンがパルサバーンに寄せる気持ちはやはりどこか違うようだった。
キャタレンジャーは所詮与えられた備品の一つに過ぎないがマリンにとってのパルサバーンは父親の形見であり、魂のよりどころであるようだった。
不自然に体をかがめながらマリンはその作業に打ち込んでいた。
「又、よろしくな。」
そう言って立ち去る雷太にマリンは軽く手を振った。

マリンはそれからしばらくの間パルサバーンの至る所を手入れした。
整備士にもらった愛用の専用キッドで接続部分のあるか無いかの小さな汚れも落とした。
(今日はもういいや。)
もたれるように床に座り込み持参した水を飲んだ。
休むとそれまでは収まっていた汗がダラダラと垂れてきた。
ひんやりした金属感が火照った体に心地よく感じられた。

マリンは基地に戻ってからは勤務が終わると毎日のようにここに来て過ごしていた。
間近で見るパルサバーンはここ数ヶ月のマリンの不在を思わせるようにかすかに埃がつもり、やりがいがあった。
(これであと一ヶ月はつぶせるな。)
そうやって何かをしなければやっていられなかった。


部屋に戻ろうとすると自販機で酒を買う雷太に会った。
「なんだ、まだやってたのか。」
制服のままのマリンを見ながら雷太はそう言った。
「良かったら一緒に飲まないか。」
そう誘う雷太に手を振るとマリンは共に歩き出した。
だが帰ろうとする雷太を呼び止めたマリンは彼を自室に招き入れると無造作にテーブルに何かを投げた。
雷太は一瞬顔色を変えたがすぐ又平静を取り戻したようだった。
「お前、最後まで一緒だったんだろ。」
「ああ。」
雷太はテーブルの上で生き物のように弧をかいてしなる一束の髪を見ながらそう言った。
意外に早かったな、それが雷太の正直な感想だった。
だがマリンは押し黙ったまま同じように一点を見つめるだけだった。
「一瞬の事だったからな、苦しまなかったと思うぜ。」
雷太は恐らくマリンが一番気にしてるであろう事をまず言った。
「そうか。」
それ以上は何も意味が無いような気がした。
マリンは依然として無言だったが雷太が立ち去ろうとした時慌てたように又聞いた。
「遺体はどうなった。」
「霊安室までは一緒だったが後の事は俺も知らない。」
それは嘘だったがあえて言う必要も無いように思えた。
雷太が知っているのは遺体が焼却された所までだ。
彼は灰の中にまだ燃え残った銃弾をひろう作業をした。
彼が知っているのはそこまでだった。
「そうか。」
雷太はやりきれないようにビールのタグを開け一息に飲み干した。

体中至る所に弾丸を浴びた無惨な遺体は、かつて息をしていたとは思えないような無機質な白い灰となって目の前にあった。
その中に点在した変形しきった銃弾。
容器に移し替えた時の冷たい金属音は雷太の胸に一生忘れられない記憶として残っていた。
「それでも、あの人は幸せだったんじゃないか。」
缶をぎゅっと握りつぶしながら雷太は言った。
「あんな・・・あんなに精一杯生きて、それはそれで一つの幸せって言えるんじゃないか。」
雷太は心からそう思っていた。
あの人にあんなに愛されたならお前だって幸せ者だろう。
そう思いながら雷太は残る一缶をマリンの前に置いた。
「あれが幸せなもんか。あんな生き方で幸せなもんか。」
お前なんかに何が解るんだ、そうつぶやきながらマリンは缶を壁に投げつけた。
こいつには時間が必要なだけだ。
雷太はそう思いながら部屋を後にした。


マリンは再び遺髪を手に取り引き出しにしまった。
書棚の一番上、いつも銃をしまう場所だった。
だから毎日二度は目にした。

もう忘れてしまいたかった。
最初から彼女はここには居なかった。
いつも遠い人でしかなかったのだから死んだ所で俺には何も関係ない、そう思いたかった。
ずいぶんと不実な恋人だと恨むかもしれない。
だがマリンは彼女を忘れたかった。
鮮明に記憶に残る彼女と共に生きる事などとうてい出来そうになかった。
「忘れないで。」と、そう言っていたのに。
マリンは自分を責めた。

部屋にいるといつもそこが呼んでいるような気がしてならなかった。
夜になると暗い室内でそこだけかすかに光るように思えてしかたがなかった。
真夜中に開けて取り出すのはいつも銃の方だった。
(でも今日じゃなくてもいいから。)
そう思って又しまう。毎日がそんな調子だった。
海を見れば彼女を思いだし、呼ばれているような気がしてならなかった。
戦闘機に乗り込むとそのまま操縦桿を倒してしまいそうで恐かった。
彼は決して死にたかったわけではない。
ただ生きる事に比べると死が妙に魅力的に思えてならなかったのだ。
(本当に厭になったら死ねばいいや。)
そうやってかろうじて今日を生きていた。

月影はそんなマリンを案じ、なるべく外に出すようにしていた。
マリンが裁判に明け暮れていた間にも地球は復興に向けて着々と歩んでいた。
地上の主要な各都市は整備され、新しく生まれ変わろうとしていた。
だが僻地といえる地域では荒れ果てたまま食料等の基本的な物不足に悩んでいた。
マリンは隊員達と共に長期に渡ってのキャンプを組み人々の支援に当たっていた。

そこにはむき出しの生活があった。
今を生きる人々にはアフロディアの死など遠い国家間の出来事でしかなかった。
誰もが愛する者を失い涙を流していた。
それでももう理不尽に誰の命も奪われる事のない毎日に安堵し、希望に向かっていた。
身に残る痛みと共に確実に一歩踏み出そうとしていた。
懸命に生きようとする人々の姿はマリンをかすかに勇気づけた。
親を失った子供、子を失った親、妻を、夫を、恋人を失った人達。
彼らのたった一つしかない命を奪ったのはアフロディアであり、もしかしたらマリンなのかもしれないのだった。
共に従事する隊員や連盟職員達とも徐々に連帯感が生まれていくようにも感じられた。
かつては確かにあった隔たりも薄れていく様に思えた。

事にジェミーといるとそうだった。
マリンは不思議とジェミーといると落ち着いた。
ジェミーが変わったのかマリンの見る目が変わったのかは解らないが、今までにない程くつろいだ気分になるのが不思議だった。
停戦交渉が始まり今に至るまでの一年以上、マリンにとってのジェミーはうるさい存在でしかなかった。
戦時中もそんなところがあった。
慕ってくれるジェミーをかわいいと思い、時にはいとおしいとも思ったが、その本質は彼の孤独に立ち入ろうとする侵入者でしかなかった。
(なぜかな。)
ちょっと不思議だったがそれならそれでいいような気もしていた。
なぜか側にいると居心地が良かった。
だから二ヶ月間のキャンプを終え基地に戻った時、ジェミーとそうなるのに余り時間はかからなかった。
彼女に申し訳ない。
そう思いながら時々部屋を訪れてはジェミーをそっと抱いた。
疲れを知らない、はち切れるような若い体にマリンは少しだけおぼれた。

ジェミーは何もかも違っていた。
彼女にもそれなりの過去はあり、苦悩があった。それはマリンも知っていた。
だがジェミーにはその暗い影を吹き飛ばすような生来の明るさがあった。
若さと希望がみなぎっていた。
それにジェミーといると地球人になれたような気がした。
(俺にはこんな女の方が合ってるのかな。)
そんな風にも思ったある日の事だった。


マリンは月影に呼ばれ彼の研究室にいた。
月影は最初何かためらっていたようだったが茶色い包みを差し出しながら言った。
「いつかは渡そうと思っていたのだが・・・・」
もう随分前に届いたのだがどうにもタイミングが掴めなかった・・・
そんな風に前置きばかりが続き一体それが何であるのかをいつまでも言おうとしなかった。
「何ですか。」
マリンは余り考えずにそう聞いたのだがそれからの月影の言葉は深く、深く胸に刺さった。

それはハーマンがマリンの為にと労を折って手に入れてくれたアフロディアの遺品だった。
本来なら連盟に帰属しなければいけないそれらを、マリンこそ持つにふさわしいと回りを説き伏せわざわざ送ってくれたのだという。
届いたのはマリンが基地に戻ってすぐの事だったという。
「宛名は無いが君当てだと思われる遺書もあるらしい。」 
手紙はベットとマットレスの間に隠されていたらしい。
遺品は連盟で着ていた衣類だという事だった。
「そうですか・・・・」

マリンは自室に戻り震える指先で包みを解いた。
懐かしい色が、形が目に飛び込んできた。
裁判の間中ずっと着ていたあの灰色の服、それら一つ一つが、丁寧にビニールにくるまれ入っていた。
他には髪を止めていたゴムとくし。
最後にやはりビニールに入った便箋の様な物があった。
(こんな物をどうやって手に入れたんだろう、あの監視下で。)
そしてそれ以上に何が書かれてあるのかと思うと恐かった。
本当は怒っていたのではないか。恨んでいたのではないか・・・・

公判が長引くにつれマリンは疲れアフロディアから離れていった。
結審の後も理由を付けてアフロディアをさけた。
彼女はあんなにひたむきで強かったのに俺は逃げてばかりいた。
そして今は他の女を抱いている。
アフロディアに対していかに不実だったか、その証拠を突き付けられたようで恐かった。 

明け方近くになってようやくマリンはその薄手の便箋を取り出した。
「私は今」 
手紙にはそう書かれていた。それだけだった。
それ以上何かを書いた後も、消した後も無かった。
そのあまりに簡単すぎる手紙を見た時マリンは泣いた。
もう枯れ果てたと思ったのに後から後から溢れ出る涙をどうする事も出来なかった。
「わたしは、いま」
一体何を書こうとしたというのだろう。
何を伝えたかったというのだろう・・・・・
マリンはただ泣いた。
どんなに彼女が愛してくれたか、やっと解った様な気がして泣いた。
あの体いっぱいで愛してくれたのだろう。
言葉では決して伝えられない何かを伝えようと、あの日望んだのかもしれない。

マリンはあの日の彼女をずっと恨んでいた。
なぜあんな事を望んだのか。あれで良かったのか。
今初めてその真意が解ったような気がした。
心を受け止めてもくれないマリンに、せめて体で何かを伝えたかったのかもしれない。
(俺はばかだ。大ばかだ。)
マリンはそうやって自分を笑い、責めた。

その日、マリンは体調不良を理由に仕事を休んだ。
こんな事は初めてだったが月影は何も言わずにマリンの欠勤を認めてくれた。
午後になると心配したジェミーが訪ねてきた。
泣きはらしたようなマリンの顔とテーブルに散らばる女物の衣類を見てすぐに事を察したようだった。
「又元気になったら遊びに来て。」
ジェミーはそれだけ言うと去っていった。
彼女の方からマリンを訪て来たのはそれが最初で最後だったと、随分後になってマリンは気づいた。

翌日から再びマリンは何もなかったように仕事に戻った。
ジェミーの部屋を尋ねる事もあったが、もう彼女を抱く気にはならなかった。
それでもジェミーは明るくもてなし笑った。
又、何もかも元の生活に戻ろうとしていた。
だがマリンはもうあそこへは戻れないだろうと知っていた。
確かにあった事を無かったように振る舞うのは所詮無理だったのだ。


月の綺麗なある夜、マリンは大きなシャベルを片手に歩いていた。
海の見える崖まで来ると一番見晴らしのいい場所を選んで大きな穴を掘った。
ごろついた土は硬く、マリンの手はまめがつぶれ血がにじんだが気にせず掘った。
それからアフロディアの遺品と髪をそっと置いた。

死んで墓も無いのはあまりにもかわいそうだった。
彼女の遺体は焼かれた後、どこに葬られる事もなく連盟の地下倉庫にひっそりと眠っている事実を知った時から、いつかはこうしようと思っていた。
だだ、今は彼女自身とも思えるそれらの品々と別れるのが辛く、こうして延ばし延ばしにしてきたのだった。
それから又丁寧に土をかけ穴を埋めた。

これで少しは安心して眠れるか・・・
こんな事は愚かな自己満足だとしか思えなかったがこの地に確かに彼女が生き、そして死んだ証が欲しかった。
あんなに一生懸命生きたのに、ただ眠らせてもやらないのは惨すぎると思った。
「月が綺麗。星も。」
いつだったか彼女は窓の外を見ながらそう言った。
「ここならいいだろ。」
マリンは声に出してそう言った後、ためらいながら手紙を破り海に捨てた。
何も無くていい。君は俺と一緒にいる。 
「そうだよな、アフロディア。」

まるで太陽のような人だった。
ぎらつく夏の光のように強烈に燃え、マリンはその輝きに飲み込まれてしまった。
けれど今はいない。
彼を照らし、苛め続けたあの光はもうどこにも無いのだった。

でも俺はやっていくよ。
君に恥ずかしくない生き方をしたいんだ。
だからいつか又会う日まで、お別れだ。
マリンはそう語りかけると朝までの時を一緒に過ごした。


ほどなくしてマリンはBFS基地を去った。
彼は正式に除隊して今は連盟の保護下に入ったのだという。
主を失ったパルサバーンを前に雷太は思った。
(まったく、ばかな奴だ。)
パルサバーンを熱心に磨く在りし日のマリンが浮かんで消えた。
「なんだ、雷太も来てたの。」
振り返るとジェミーが同じような顔をしながら近づいてきた。
「行っちゃったね・・・」
ああ、と頷きながら雷太はジェミーの孤独を思って胸が痛んだ。
「辛いな・・・ジェミーは。」
ジェミーは意外そうに目を丸くしながら聞いた。
「雷太、知ってたの・・・・」
「ああ。マリンが話してくれた。」
「なんだ、そうなの。」
そう言いながらジェミーはどこかおかしかった。
全くマリンは最後まで私にいい加減だったんだ。

二人はそうなってからも何かこの関係が長くは続かない気がして、どちらともなくこの事は回りには隠しておこうと、そう約束した。
マリンが本気でないようにジェミーも又本気ではなかった。
ただ、あんなにも恋焦がれた過去の自分の為にそうしたのだ。
だからといって約束ぐらい守ってくれてもいいじゃないか。
不実でいい加減なマリンが悲しく恨めしかった。

雷太はそんなジェミーの態度を少し取り違えたようだった。
「ちょっと間が悪かったかもな。もう二年も後だったら解んなかったんじゃないか。」
雷太は雷太なりに慰めたつもりだったがジェミーには、やはりちょっとずれて感じられた。
男ってばかだな、そう思いながらジェミーは言った。
「二年後でも三年後でも同じだったと思うよ。
マリンは私には無理だった。あんな人は私の手にはおえないもの。」
意外に大人の反応のジェミーに雷太は驚いた。
雷太も本心ではそう思っていたからだった。 

マリンが地球に来てからもう二年半以上の時が立っていた。
開戦時には新米隊員で子供じみていたジェミーが成長するにふさわしいだけの時が流れたのだ。
「やっぱりあれかな、あの人みたいなのがいいのかな、マリンは。」
ちょっと残酷かもしれないが雷太は素直に思った事を言ってみた。
「そうかもしれない。だってあの人もちょっと普通じゃなかった。」
ジェミーは記憶の中のアフロディアを思い浮かべた。
あんな人が相手ではかないはしない。最初から無謀な恋だったのだ。
「やっぱ、あれかな。俺が女でもマリンには惚れるかな。」
あいつはいい男だからなあ、とちょっと悔しそうに雷太は言った。
「絶対好きになるって。あんな素敵な人はちょっといないもの・・・」
夢見るようにジェミーは言った。
「でもばかだけどな。」
「うん、おおばかだけどね。」
そう言ってジェミーは笑った。
なんだ、大丈夫じゃないかと雷太は安心した。
もうこれ以上誰かが悲しむのを見たくなかった。

二人はしばらく同じようにパルサバーンを見つめた。
そしてマリンが月に不時着した時の事を同じように思い出していた。

流れ星みたいに突然来て、突然行っちゃった。
ジェミーはそう思いながら我知らずつぶやいた。
「これからが大変なのに・・・・」
だってそうでしょ。マリンはこれからが大変なのにどうして一人で行っちゃうの。
ジェミーは半泣きしながら続けた。

「私達って一体何。一番辛い時に支えさせてもくれないなんて、ひどいじゃないの。」
雷太は何と言っていいのか解らなかった。
「どんなやり方だっていいのに、頼って欲しかった。」
雷太はジェミーが今だにマリンを深く愛していた事にやっと気づいた。
ただ愛し方が今までと違っていたから気がつかなかっただけだったのだ。
「マリンは結局一人なのよ。私達なんて仲間でも何でもなかったのよ。」
「それは違うだろ。」
ジェミーの深い悲しみの前には何を言っても無力だと解っていたがそれは違うと雷太は思った。
「マリンだけじゃないさ。人間、結局は一人なのさ。
マリンはただその事にちょっと早く 気づいただけだろ。あいつは大人なんだよ。」
雷太はパルサバーンを見上げて思った。

連盟はマリンの除隊を条件付きで認めた。
それはパルサバーンの譲渡と、有事の際の全面協力だった。
マリンは承諾し去っていった。
マリンは彼の魂ともいえるパルサバーンを金で売ったのだ。
そうまでして、全てを捨ててやり直す覚悟をしたのだろう。
それじゃあ、連盟の思うつぼじゃないか。
雷太はそれが悲しく本当に良いのかと詰め寄ったがマリンはただ笑っていいんだ、と言うだけだった。
「持っててもしょうがないだろ。」
そう言って笑った。

明日にはそのために訓練され教育を受けた連盟の派遣するパイロットが来る。
これからはマリン抜きでバルディオスを動かさねばならないのが不安だった。

ジェミーも雷太の言葉をしみじみそうかもしれないと思いながら振り返った。
マリンの除隊は本人の強い希望でその前日まで伏せられたが、それでもマリンはジェミーにだけは決定直後に言ってくれた。 
それは不実なマリンがたった一つ見せてくれた誠意だった。

「しばらく一人で生きてみたいんだ。」
マリンはジェミーから顔をそむけ、そう言った。
「だから君も・・・・」
その時だけマリンは目を合わせた。
「だから君も一人で生きてくれ。」

ジェミーは少ししかないマリンの荷造りも手伝った。
「あれはどうしたの・・・」
どうしても気になったからジェミーは聞いた。
「あの人の、あれ。」
ああ、と軽く受け流しながらマリンは言った。
「もうここには無いよ。」
「捨てたの。」
問いかけるジェミーに少し笑ってマリンは答えた。
「捨てた訳じゃないけどここには無い。もうどこにも無いんだ。」
そうまでしなければ出直す事も出来ないのかと、マリンの深い悲しみと孤独を思ってそれ以上は言葉が続かなかった。
何を言ってもこの人は出ていってしまうんだ。
あの時ジェミーはそう確信した。

BFS基地も終戦と共に負う任務が少しずつ変わっていった。
それに伴って苦楽を共にした戦友達はそれぞれに辞令を受け、次の任務に散っていった。
だからマリンもその一人なんだ、雷太はそう考えていた。
「どこにいたってマリンは仲間だろ。離れていたって仲間じゃないか。」
まったくそんな事も解らないから振られるんだ。
雷太はふざけながら、半分本気でそう言った。
ジェミーはちょっと傷ついたようだが思い直したように又言った。
「雷太、私はね、マリンの仲間になりたかったわけじゃないの。マリンの特別な人になりたかったのよ。」
だって今でもマリンが好きなんだから。
そう言うとジェミーはため息をついて行ってしまった。

マリンばかりがいい思いをしやがって。
雷太は少しだけそう思ったがそれが全くの嫉妬である事に気付いて苦笑した。
マリンはいい思いなんて少しもしなかった。
いつでも悩み、苦しんでいた。
マリンは愚かだがそれは彼の持つ誠実さ故なのだろう。
今、どこにいるのかは知らないが今度は少しは幸せになって欲しいと心からそう思った。
マリンにはその権利があるはずだった。


しばらくしてマリンから一通の手紙が来た。
海の見える小さな街で静かに暮らしているのだという。

マリンは連盟の保護プログラムの元、新しい経歴と名前を与えられ今は全くの別人として生きているのだった。
だから差出人には名前が無かった。
ただ「M」とだけ記されていたが、懐かしいその筆跡からそれがマリンである事が誰にでも解った。
マリンの新しいプロフィールは連盟のトップシークレットとして堅く隠され、月影ですら知りはしなかった。

落ち着いたら一度基地に寄ってみたい。
手紙はそんな風に結ばれていたが、その後はもう何の連絡もなかった。
その後のマリンがどこでどう生きたのかは誰も知らなかった。


                              
 2001.JULY

海に降る雪 海に降る雪


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