雪解けの朝 

                        
その日、パルサバーンの操縦桿を握るマリンの手は震えていた。
いつもと同じに見えるスクリーン越しの空も、海も何かが違っていた。
同乗している月影とクインシュタインも沈痛な趣で外を見ていた。

何かが違う。何かが。
そしてそれがどこから来ている物なのかは三人とも解っていた。
パルサバーンに搭乗していたのはマリン達だけではなかった。
後部席にはカプセルが二つ。
その中には永久に醒めぬ眠りについたガットラーと傷つき果て意識を失ってはいるものの、まだ確かに生きているアフロディアの姿があった。

マリン達は火急に、との世界連盟の呼び出しを受けこの突然の事実を知った。
あまりにも深刻な事態にモーガンも動揺を隠せなかった。

それは誰もが予想だにしなかった出来事だった。
アルデバロンは内部分裂の結果、総統ガットラーを殺害、新体制を確立させたという。
そしてアルデバロン新政権は地球からの完全撤退を条件に、世界連盟に数々の要求を突き付けてきたのだ。

すぐには信じられない話だった。
確かにここ数ヶ月という物、不思議と攻撃はなかった。
開戦以来一年、こんなにも穏やかな日々はなかったと言ってもいい。
が、それだけに誰もが近く訪れるであろう最終決戦を想定し、あらゆる角度からの検証を行っていたのだった。

連盟幹部の誰もがアルデバロンの主張を信じなかった。
ちょうど半年前、世界放送によってもたらされた平和会議はもろくも崩れ去った。
結果、地球は多くの犠牲を被ってしまった。あの時の二の舞はごめんだ・・・
誰もがそう思っていた矢先にガットラーの死体は送られてきた。


マリンは地球上で唯一、直接ガットラーを知る人間として連盟に呼び出された。
事態は堅く口止めされ、ごく少数の連盟幹部と月影ら三人だけが対応にあたっていた。

ガットラーは眉間を打ち抜かれ苦悶の表情を浮かべていた。
それはマリンが知るガットラーではなかった。
Sー1星議会を牛耳り、皇帝をも亡き者にしたあの強腕で尊大な支配者の姿はなく、ただ一片の肉のかたまり、見慣れた死体の一つにしか過ぎなかった。
おそらくは死後かなりの時間がたっているのだろう。
薬品処理されたのか、その体は腐敗こそしていないものの青黒く変色が進み、硬直しきっていた。
(出来る事なら俺がこの手で殺したかった。)
だが目の前の死体はただ静かに横たわるだけだった。
  
連盟幹部はそれでもマリンも言い分を信じなかった。
確かにガットラーだという確証は何も無いのだ。影武者を使っての攪乱戦法かもしれない。
しかし矢継ぎ早に送られてきた二つ目のカプセルを見た人々は、これは確かに敵に何かがあった事を確信せざる終えなかった。

そこには生きたアフロディアがいた。
なんらかの手段で眠らされているのだろう。が、息はあった。
殴られたのだろうか、その顔は腫れ上がり、形も変わっていた。
顔だけではなかった。彼女の体全体には激しい暴行の後が見られた。
マリンはその姿を正視できなかった。


マリンは連盟で過ごしたこの数日間を振り返って思った。
あの日と同じようにクーデターが起こったのならば考えられる事態だった。
独裁者ガットラーに造反する者がいたとしても不思議はない。敵対勢力を力で押さえ続けてきたのだ。
むしろ、マリンはいつかこうなる事を予想していた。

しかしアフロディアはどうなるのだろう。
常にガットラーに寄り添い、片腕を勤めてきたアフロディアが許されるはずもない。それは解っていた。
かといって司令官まで務めた彼女にたいして、あまりの仕打ちではないか・・・
むごたらしく腫れ上がったアフロディアの顔は見るに耐えられなかった。
恐らくは交渉を有利に進めんが為のカードに使われてしまったのだろう。

アルデバロン新政権の地球撤退の条件は多岐に渡っていた。
まず食料を、さらに地球上の様々な資源を要求していた。

マリンにはクーデターが事実、起こった事は信じられた。
しかし地球から撤退した後どこへ行くというのだろうか。
又、新しい星を侵略するというのだろうか。
もしそうであれば同じSー1星人としてこのまま見過ごす事は出来ない。
全てはこれから行われるであろうアフロディアへの尋問で明らかにされるのだろう。

マリンはミラー越しに月影を見た。
「長官。アフロディアは我々が保護すべき捕虜です。捕虜として適切な扱いをお願いします。」

基地に帰る前にどうしても言っておきたい事だった。
まだ基地内でもこの事実を知る者は少ない。
だがいかに箝口令を引こうとも、いずれは一般隊員にまで知れ渡る事は間違いなかった。
「それは大丈夫だ。何か動きがあるまでは大事な生き証人だ。命の保証はしよう。
これは世界連盟の意向でもある。」
「長官、俺が言いたいのはそういう事ではないんです。」
「だが、マリン、まだ我々は敵の動きも掴めていないのだ。それより私は君の方が心配だ。」
そんな月影にクインシュタインも続けた。
「もしも敵の言い分が事実でこの戦いが終わるとしたら・・マリン、あなたの置かれてる立場も微妙に変わるかもしれないのですよ。」

マリンは一瞬言葉を失った。戦いが終わる・・・・
ただ戦う為だけに生きてきた自分はどうなるというのだろう。そんな日が来るというのだろうか・・・・
BFS基地はもう目の前だった。


BFS基地に身柄を預けられたアフロディアだったが、その体はすぐには尋問出来ない程、衰弱しきっていた。
それはアフロディアを憎んでいる地球人でさえも思わず目を背ける程悲惨な状態とも言えた。
一方アルデバロンは世界連盟に無期限の停戦を呼びかけてきた。
世界各地に作られた敵要塞もなりを潜めている。
まずはアフロディアを尋問を受けられる程度に回復させる事が先決だった。

マリンは可能な限りアフロディアを気遣った。
日々病室を訪れる一方で、月影や連盟に助命を嘆願した。
しかし、意識を回復したアフロディアはマリンの面会を拒否した。
マリンには無様な姿を見られたくなかったのだ。
看護婦を等して彼女の意志を知ったマリンはその気持ちを尊重して見舞いを止めた。

しかし尋問が始まると、マリンもその場に呼ばれた。
久しぶりに見るアフロディアは幾分は回復しているものの、包帯姿が痛々しく哀れだった。
アフロディアは壁際に立つマリンを見つけると一瞬表情を堅くしたが、やがて淡々とクーデターの様子を語り始めた。

それは地球侵攻一周年の記念式典の席であったという。
反ガットラー派は以前から着々と準備を進め、暗殺を成功させた。
ガットラーはアルデバロン全兵士の目の前で射殺されたのだという。
クーデター首謀者は突然の惨事に動揺する軍をまとめ、議会を招集し、新体制を確立させた。
アフロディアはからくも処刑を逃れたもののクーデターの生き証人としてこうして地球に送り込まれたのだという・・・

月影は聞いた。
「クーデターの首謀者は誰だ。」
「軍部からは戦斗隊のジョブとデルリ。民間では科学局と移民局、それに情報局も協力していたらしい。」
「君は司令官でありながら部下の動きにまるで気づかなかったというわけかね。」
「そのようだな。」
その一種ふてぶてしい態度は皆の失笑を買った。 
「どうにもにわかには信じがたい話だが・・・マリン、君はどう思うかね」
腕を組み考えていたマリンは静かに言った。
「もともとSー1星ではクーデターが多かった。
最後の皇帝一族が皇位に着いたのも軍部が起こしたクーデターがあっての事だ。
あり得ない話じゃない。」

マリンは誰よりも冷静だった。
彼はアフロディアの証言がことごとく真実であると確信していた。
「むしろ俺が気になるのは、なぜそこまで大規模な計画を未然に防げなかったか、だ。
アフロディア、お前、本当に何も気づかなかったのか。」
マリンはアフロディアをまっすぐに見つめ聞いた。
「おいおいマリン、そりゃー買い被りってもんだぜ。」
先に言葉を切ったのはオリバーだった。
「そうさ。こいつはそれだけの女だって事さ。」
雷太も面白そうに続けた。

最初のうちは言葉にこそしない物の、誰もがアフロディアに同情気味だった。
味方に追われた美貌の司令官を哀れに思っていた。
しかしいったん口を開くと、傷ついた外見とは裏腹にいたわりという物をまったく寄せ付けなかった。
その眼孔は鋭く光り、憮然とした態度にはかわいげといった物がまるで見られなかった。
「部下にも見捨てられるような司令官だぜ。そりゃー気づかないだろうぜ。」
フンと鼻で笑いながらオリバーは言った。
だがマリンは二人にかまわずアフロディアの前まで来るとさらに言った。
「お前一体どうしたんだ・・・・」
心がそのまま見通せるようなマリンの口調にアフロディアは戸惑った。
マリンだけは彼女の強い言葉の裏に隠された何かを悟っているかのようだった。
だがアフロディアはそんなマリンの問いかけに答えようとはしなかった。


アフロディアへの尋問は連日のように行われた。
マリンはやがてその様子を観察するうちに一つの事に気がついた。
それは彼女がどんな尋問へも常に冷静で的確に答えている事だった。
尋問は多岐に渡った。
月影はクインシュタインと入れ代わりつつ様々な角度から追求していった。
どんな些細な食い違いも見逃さぬように追いつめた。
アフロディアは時に考え込むような事もあったが黙秘はしなかった。
それはどんな鋭い詰問にも慎重に言葉を選んで対応しているかのようにも見えた。
(アフロディアは俺達に何かを伝えようとしているのか・・・)
むろんアフロディアもただ従順に答えているのではなかった。
時に月影らを罵倒しトゲのある言葉をぶつけてきた。
あいかわらずこちらを見下したような態度も変わらず、雷太やオリバーは腹立たしさに何度もほぞをかんだ。
しかしマリンにはその姿が一種、計算され尽くした演技に思えてならなかった。

尋問を進行させていたのは月影ではなかった。
アフロディアは実にたくみに言葉を選びBFSを、地球を一つの方向へと導いているのだった。


「あなたもそう思いますか。」
クインシュタインは自身にぶつけられたマリンの疑問に答えて言った。
「私も長官も同じです。」
クインシュタインはしばし考え込みながら続けた。
「マリン、あなたは彼女が何を狙ってそんな事をしていると思いますか。」
「アルデバロンに起こった事は間違いなく事実だと・・・・違うな。そんな事じゃない。
なにかもっと大きな事を伝えているような気がする・・・」
「脳波探査にかけても具体的には解りませんでした。
自らを犠牲にしてまで仕掛けられた巧妙な罠なのか、それとも・・・・」
言うべきかどうか迷っているように博士は一瞬言葉を切った。
「それとも全てを認めて、この戦いを終わらせようとしているかのどちらかでしょう。」


マリンはアフロディアが胸に秘めている物が見えたような気がした。
アフロディアは地球の憎しみを一手に引き受け、身を犠牲にする事でSー1星、一億の民間人を救おうとしているのだろうか。

アルデバロン新政権は地球撤退の後は元来の移住先であった惑星へ旅立つのだという。
マリン達はSー1星を脱出する際に起こったワープの影響でガットラーが見つけたその星を見失い、太陽系へとたどり着いた。
だがアルデバロン科学局は綿密な調査の末にその惑星デンバーを見つけだした。
そして軍部の一部を抱き込み今回のクーデターに至ったのだという。

デンバーについてはマリンも名前くらいしか知らなかった。
知っているのはマゼラン星系にある小さな星だという事ぐらいだ。
むろん、現在の地球の科学力ではその星が実在するのか、人類の移住が可能なのかも解らなかった。
彼らの言い分はこうだった。
撤退するかわりに資源をよこせ。旅立ちを援護しろ、と。

マリンはアフロディアと直接話がしたかった。
会って話せば何かが解るような気がしていた。
二人はこの一年近く幾度も刃を交わしてきた。
時に追いつめ、時に協力もした。常に互いの命ぎりぎりまで踏み込み生死を共にしてきた。
彼女は敵でありながら同時に戦友でもあった。
二人だけにしか決して解らない絆があるはずだった。
マリンは彼女とベリシアで過ごした時間が忘れられなかった。
あの時マリンはアフロディアの中に潜む何かを見た。
非情な戦士アフロディアの裏側にある何か暖かい物、温度のような物を感じ取っていた。
そして彼女もマリンの戦わねばならない理由や、不安を感じ取ったはずだ。 

しかしそんなマリンの願いは叶うはずもなかった。
尋問が始まってからのアフロディアは厳重に警備され、隊員の目の届かない独房に隔離された。
アフロディアは地球の将来を左右するかもしれない存在だった。
いたずらに刺激して彼女の言動に外部からの意図的な何かが加わるのを恐れたのだ。
マリンの一個人としての考えなど取り上げられるはずもなかった。
それでもマリンはアフロディアに近づきたかった。
最初に彼女が入れられた牢には窓が無かった。
アフロディアの身柄には細心の注意が張られた。
外部との交渉を完全に絶つ事が望ましかったからだ。
あれでは逆効果だと何度も懇願した。
より効果的に尋問を進める為にも、アフロディアは海の見える牢に入れるべきだと強く主張した。
やがてクインシュタインはいぶかしりながらもマリンの主張を認めた。

アフロディアはなぜ突然、牢を変えられるのかが理解できなかった。
彼女のような立場の捕虜ならば完全に閉鎖された空間に閉じこめて心理的な消耗を狙うのは戦術の基本だ。
あえて少しでも脱走の可能性のある牢に変える事に何か意味があるとは思えなかった。
ましてやそこにマリンの指示があろうとは考えもつかなかった。

静かに海を見る毎日は少しずつ心を安らかにさせていった。
その微妙な変化は決してBFSの皆に伝わる事も、証言に具体的な影響を加える事もなかった。
だがマリンだけは敏感にアフロディアの内面の変化を感じ取っていた。
(あの海を見て考えるといい・・・・)
マリンはそう思っていた。


アフロディアは海を見ていた。目の前に広がる空間・・・
厚い壁越しにであるが確実に海はあった。
マリンは時々ではあるが彼女の様子を見に来ていた。
監視用の小さな小窓が音を立てて開く時、マリンの澄んだ瞳がこちらをのぞくことがあった。
マリンはいつも問いかけるような眼差しをぶつけてくる。

この頃のアフロディアは尋問中、思いがけないな鋭い詰問をされた時には、決まってマリンを目で追うようになっていった。
マリンの目の中にある強い光の中に彼女の探す答えがあったからだ。
何を話すわけでもない。
ただ二人は見つめ合いながら互いの存在の重さを確信していった。

やがてアフロディアは目の前に広がる海にマリンの意志を感じるようになった。
ばからしい・・・
そう自分に言い聞かせながらも見る海は今、生きる事の意味を問いかけて来るのだった。 
(もしもそうなら私はをどこかでこれを期待していたのだろうか。)
アフロディアは数ヶ月前に起こったあの日を思い返していた。


式典の日、ガットラーは必死の制止を振り切ってまで出かけ、むざむざ殺されてしまった。
その場に踏み込みながらガットラーを凶弾から救う事が出来なかった。
なぜ代わりに死ねなかったのだろうか・・・・
なぜあの場で再び銃を構えるカイザーの間に入れなかったのだろう。
今一歩の所で、捕らえられた時に聞かされたあの疑惑が足を止めさせたとでもいうのだろうか。

アフロディアとて初めて聞く話ではなかった。遠い昔に何度か耳にした事はあった。
だが一瞬胸に広がった疑惑はすぐさまうち消されそのまま忘れ去ってしまった。
受け入れるにはあまりに惨い話だった。
彼女の深層心理は生きんが為の本能によって疑惑をうち消し、記憶に鍵をかけてしまったのかもしれない。
(でもあの時は違った・・・・)
カイザーの言葉で引き出された記憶は考えまいとしていた数々のガットラーへの不信を伴ってアフロディアを襲った。
それは命を懸けてガットラーを守らねばという強い使命とぶつかり合いほんの一瞬、思考は止まった。
そしてガットラーは死んだ。 
(あの時一緒に死ねば良かった・・・)
放心状態でその場に立ちすくむアフロディアはカイザーによって保護された。
実行犯のカイザーの意向は大きい。
処刑を要求する勢力を力で押さえ込み隔離した。
アフロディアは更迭され、自由を奪われはしたが命は助かった。
 
そこからが本当の地獄だった。
ガットラーを死なせた罪悪感に加え、両親を殺したかもしれない男にそれと気づきながらも離れられなかった自分への嫌悪感に苛まれた。
ミランを失った時、全てを無くしたと思った。
だがそれは違った。
それでも死ねない己の弱さに打ちのめされながら今がその時なのだと悟るのだった。

カイザーはそんなアフロディアに優しかった。
いや、あの時はカイザーが優しかろうが、どうであろうが何も見えてはいなかった。
アフロディアは今になってそう思う。
あれも一つの優しさであったのだろう、と。

新体制を作り上げねばならない重要な時期にも関わらず、カイザーは時間を作っては何かと彼女の身を案じていたようだった。
(あの時もそうだったのかもしれない・・・)
ある日、アフロディアは複数の男に襲われた。
まずは激しい暴力を、それから男達は口々に下卑た言葉を浴びせながらかつての美貌の女司令官を抱こうとした。
アフロディアはとっさに舌をかもうとしたが、引きちぎられた服をかまされそれ以上抵抗する事が出来なかった。
あの時の恐怖は今も消えはしなかった。
最初の男がのし掛かってきた時の悪夢は今も変わらず胸に焼き付いていた。
女に生まれついた事を神に呪った。
が、その時だった。
幸運にもあらわれたカイザーによってかろうじて助け出された。
最後の一線は確かに守られた。
だが心は事実その事があったかのように傷つき壊れてしまった。
いったい自分に何が起こったのかも解らなかった。
カイザーは恐怖に震え怯えきったアフロディアを強く抱きしめると叫ぶように言った。
「いいから俺の物になれ!」

ここに生きたアフロディアがいる事が問題なのであった。又いつ、誰が同じ事をするかもしれない。
さらに言えば新たに召集された議会はアフロディアをガットラーの死体と一緒に生きたまま地球に送り込むよう検討していた。
「もしそんな事になったら、地球人に必ず同じ事をされる!
地球にはお前を守ってくれる 者はいないぞ!」


議会にはかつての司令官をそこまで追い込むには躊躇する声もあった。
だがアフロディア自身が追い風となってその決定は下された。
ガットラーは一億の民間人の身を常に案じていた。
体は滅びたがその意志はアフロディアの中に生き続けていた。

彼女に与えられた最後の仕事はアルデバロンの真意を明確に伝える一方、交渉を促し、より有利な条件を引き出す事にあった。
アフロディアはかつて自らの指揮で、地球から寄せられた和平交渉を反故にしていた。
どう考えてみても世界連盟がこの話を鵜呑みにするとは思えなかった。
だが彼女はこの困難な作業に立ち向かう事で自分を救いたかったのかもしれない。
(いや、そんな事ではない・・・)
今、冷静になって振り返ってみればあの時はただあの場から逃げ出したかっただけだった。
殺してくれないのなら、よりいっそう死に近い場所に行きたかった。

カイザーは決して急がないと言った。とりあえずでいい、とも言ってくれた。
だがそんな事ができる自分ならどうして今まで戦ってきたというのだろう。
生きる事は問題にもならなかった。
そうまでして生きる理由は何も無かったのだ。 


まるで頃合いを見計らったようにアルデバロンは交渉を具体化させてきた。
まずは様々な形で捕虜として捕らえられていた数百人の地球人の釈放を餌に、物資を引き出しにかかってきた。
世界連盟は今だにアルデバロンの一連の動きを市民に公表していなかった。
だが、この事が徒になった。
彼らは突然、世界放送のテレビ回線をジャックし捕らえた地球人の姿を全世界に公開した。
すぐ目の先にいる、死んだとばかり思っていた肉親に再会した人々は驚喜し、交渉の実現を願って各方面に働きかけた。
事態を隠し続けた連盟は追求され、人命優先の強い意志が最初の交渉を進めるきっかけとなった。
そして事実、捕虜は釈放され、世界は歓喜の声に包まれた。

数ヶ月にも及んだアフロディアの尋問も終わりつつあった。
月影は彼女の証言内容を分析し連盟に報告した。
BFSはアルデバロンの主張の信憑性を認め、停戦交渉を進める価値に一定の評価を下した。
世界連盟はそれらの調査結果を基にこれからの交渉をのリードを取る為、具体的な検証をし始めていた。

だが敵も巧妙だった。
実に手慣れた様子でカードを使い分け、連盟の追随を許さなかった。
マリンに言わせればアルデバロンは戦争慣れしているのだと言う。
Sー1星は滅びゆく星にふさわしく資源に乏しかった。
その為遠い星系に船団を率いて遠征に行く事も珍しくなかったからだ。
捕虜を解放し太陽系各惑星に作られた前線基地を放棄した。
地球上に幾つか造られた要塞の位置も証した。
だが、地球に残された核兵器の内の四分の一を今だ手中に収めたまま手放す気配は見せなかった。

やがて人々の関心はアフロディアを離れ交渉の成り行きへと移り変わっていった。
全ての尋問を終えたアフロディアは今日も一人、窓越しに海を見ているのだった。

この頃のアフロディアにはもう時間という観念が無かった。
空の色の移り変わり、海の色の深さでのみ、その日一日の時の流れを知った。
後は日に3回やってくる食事と週一回の心理テストだけが彼女に時間という物を思い出させていた。
だがアフロディアはもう一つ、時の単位を持っていた。
それはマリンだった。
マリンが牢を訪れるのは日に二回。いつもほぼ決まった時間だった。
今のアフロディアはマリンの靴音を聞き分ける程になっていた。
(もうそんな時間・・・)
長い通路の角を曲がった辺りから響いてくるリズム。やがて近づいてくる足音。
(今日も来た・・・・)
その時何をしていようとも、何を思っていようとも彼女の耳はその小さな音を敏感に聞き分けた。
厚い扉の前で足音は止まり、時折何か看守と話をする時もあった。
そして今日もマリンが訪れる時間が来ようとしていた。

その日のマリンの足音はいつもと何か違っていた。
やがてそんなアフロディアの気持ちを測るように扉が叩かれた。
初めての出来事だった。
「アフロディア、ちょっといいか。」
マリンは壁際のスピーカー越しに話しかけてきた。
「今日からしばらく来られない。」
マリンは一息でそう告げるとさらに言った。
「後で届ける物があるから良かったら見てくれ。それから・・・・」
一瞬の迷いの後にマリンはこう続けた。
「それからもう少し、食事は取った方がいい。地球のメシはそう悪くないぞ。」


それは昼食と一緒に届けられた。
看守が言うにはその為にマリンはわざわざ月影に許可を取ったのだという。
「まだ他にも預かっているから、見終わったら言いなさい。」
それは雪をかぶった冬山の写真集だった。
アフロディアは一つページをめくるごとに現れる荘厳な風景に目を奪われた。
おそらくマリンはしばらくBFS基地を離れるのだろう。
その間の彼女を気遣って、こんな事をしたのかもしれない。
交渉がより具体化してその席に呼ばれたか、そうでなければ要人の警護なのかもしれない。
アフロディアは双方が交渉の席に着いた事を確信し、密かに喜んだ。
(この基地内にいればマリンはきっと来る・・・)
そう考えてアフロディアははっとした。
何を根拠にそんな事を思いついたというのだろう。 

地球にはマリンがいる。
あの時確かにそう思った。
アルデバロンで男達に襲われカイザーに助けられた時だ。
「地球にはお前を守ってくれる者はいないぞ!」
そう聞きながら抱きしめられた腕の中で思ったのはマリンだった。
(地球にはマリンがいる・・・マリンが私を守ってくれるだろう・・・)
そうとは決して自覚しなかったがマリンの存在が肩を押した。
そして事実マリンは彼女を気遣い守ろうとしていた。
死ぬ為ではない。生きる為にここに来たというのだろうか。
その答をアフロディアも知りはしなかった。

海に降る雪 雪解けの朝


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